今日の映画 – 沈黙 サイレンス(Silence)

映画「沈黙 サイレンス」のポスター

映画レビュー

遠藤周作の小説のマーティン・スコセッシによる映画化。1月末に公開されていたが、原作を読んでからと思ったので映画館へ行くのが遅くなった。直前に原作を読んだこともあって、小説と映画との対比がひとつの楽しみやった。というのも、遠藤周作の原作は、主人公ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)が書いた上司宛の書簡が続くという形で始まり、その後第三者視点の描写に変わり、その後日本を訪れたオランダ人の書いた書簡、最後は役所の記録文書が並ぶという体裁になっている。

映画では、普通に役者が台詞を喋り、それを撮影するという形で続くが、ロドリゴあるいはオランダ人のモノローグが重ねられることでロドリゴのその場での心情を説明するとともに、原作の雰囲気を上手に残している。さすがに、最後の記録文書のところは完全に普通映像に置き換えられているが、この部分は原作では候文で書かれていて現代人では読みにくいところなので致し方ない。

もう一つ注目したのは言葉の問題。ロドリゴなどの宣教師はポルトガル人なので当然ポルトガル語をしゃべるが、この映画はアメリカ人監督によるアメリカ映画なので映画の中の言葉は英語。これは仕方ないと割り切る。映画の中では通訳(浅野忠信)が途中から出て来るが、それまでは外国人宣教師と隠れキリシタンが直接対話して懺悔まで聞くくだりがあるが、映画ではこれを何語で喋らせるのか興味があった。小説では、時々明示的にポルトガル語あるいは日本語の会話と分かるようになっていたが、大部分ははっきりしない。それでも活字で読めてしまうのが小説で、遠藤周作もそこには立ち入らずに書いていたように思う。しかし、映画では出演者に喋らせなければならないので、どうするかであるが、教育を受けていないはずの日本の漁師、百姓が日常的な会話を英語で喋っていた。さすがに懺悔のところは日本語で、それを宣教師たちが一生懸命理解しようとしてあまりできていない用に見せていたのは映画にするうえで苦労したところかもしれない。

そういうやりにくい部分はあったにせよ、全体としてはかなり忠実に映画化しているなというのが感想。また、撮影は台湾で行ったらしいが、建物や衣装、その他の時代考証をしっかりやっていたようで、イメージする江戸初期の田舎の村と人々の姿に違和感は全く感じなかった。ただ、明らかに原作と違っていたのは結末の部分。スコセッシは何かのインタビューで「原作を何度も読み返してロドリゴの師で棄教したフェレイラ(リーアム・ニーソン)は実は棄教していなかったのではないかと思い当たった」ということを語っていて、映画の中でも一瞬フェレイラにそのような思わせぶりな言葉を吐かせる。これは原作にはない台詞。

僕はキリスト教徒でないし信心深くもないが、この解釈はちょっと違うのんちゃうかなと思う。僕の解釈は、フェレイラは転んだが、神を信じ続けていた。ただし、その神は教会が用意した「唯一普遍的な神」ではなく、もっと個人的な「神」やったんちゃうやろか。それはフェレイラ自身が言うところの日本人がキリスト教とその神を別のものに変えてしまっていたというところと繋がっている。いきなり仏教やヒンズー教のような多神教へのジャンプは無理にしても、キリスト教の範疇の中で、教会を通さないずに神と個人が直接関係するという多様性を受け入れたという解釈がしっくりくる。そういう理由で、映画の最後のシーンはどうかなと思った。

あと、小説にあって映画に無かったのは、ロドリゴが「神が存在しないかもしれない」という考えに思い当たったときの葛藤のようなところ。小説では、

神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったベルガの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声をだして笑った。

の部分。ここはロドリゴが神の「沈黙」に向き合う大事なところやったので、含めて欲しかったと思う。

日本の俳優陣は、皆良かったと思う。イッセー尾形の井上様も原作のイメージに近かったし、通訳の浅野忠信も想定通り。それ以上にイチゾウの笈田ヨシとモキチの塚本晋也の熱演が光る。

アンドリュー・ガーフィールドは頑張っていたけど、スパイダーマンからのやんちゃな若者のイメージがあって、個人的には想定外。しかし、見ているうちにだんだんと悪くないかなという気分になってきた。受賞は逃したが、次作「ハクソー・リッジ」でアカデミー主演男優賞にノミネートされるくらい実力を付けてきているので今後が楽しみ。

相棒役のアダム・ドライバーは台詞もあまり多くなかったが、特異な風貌をしているので次作「スター・ウォーズ 最後のジェダイ」次第では注目される俳優になれるかも。

リーアム・ニーソンはジェダイ・マスターの風格で、これくらいは余裕という感じ。

最後にキチジローをどう解釈するかが難しい。単純に考えれば、キリストに対するユダとも見えるが、ユダのことはよく知らないので深入りしない。性格悪いし、裏切るし、ええとこないけど本人なりに考えて、悩んで、解決できずに同じところをぐるぐる回っている。ちょっとイッてるところで窪塚洋介は適任か。キチジローにとっては、「神」は今まで積み重ねた悪行をリセットしてくれる便利なものくらいの位置付けでしかないかもしれないが、それでもキチジローなりの「神」がある。とすれば、イエズス会の神、転んだ宣教師の神、日本の庶民が作り変えてしまった神、キチジローが信じるところの神、そういった多様性に対する寛容を遠藤周作は書きたかったのではないかと思う。

映画のメリットをもう一つ。小説を読んで「穴釣り」は体全体を穴の中に落とし込んで吊られるのかと想像したけど、そうでないことは映画で初めてわかった。

Trailer

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