今日の映画 – ザ・スクエア 思いやりの聖域(The Square)

The Square

映画レビュー

監督は「フレンチアルプスで起きたこと」のリューベン・オストルンド。「フレンチ~」では良い夫だったはずの男が雪崩の際に自分だけが逃げたことで本性を露呈してしまうという話だったが、この映画では成功した現代美術のキュレーターが思わぬことから転落し始める話。

観終わったあとで振り返ってみると、ポイントは、「社会的成功者の傲慢」と「一般人の他人への無関心」ではないかと思う。映画の中でこの2つは繰り返して見せられる。

社会的成功者の傲慢については主人公クリスティアンの行動そのもの。例えば、スリの住むマンション住人全員への脅迫状、それに対して文句を言ってきた少年への態度、その少年への謝罪の録画をしながらすぐに問題をすり替えてしまうこと、女性と寝ることによる征服感、破損してしまった展示品をこっそり修復させること、等々。さらに、クリスティアンの相似形が彼の部下だったり、広告代理店の人間だったりして、世間の常識と乖離していることに気づきもせず自分達の理屈でしか考えられない。

一方、一般人の他人への無関心は、冒頭の叫びながら逃げてくる女性を助けようとする人がほとんど居ないこと、パーティでのアトラクションの猿男が暴走して女性に絡んでも誰も助けようとしないこと、ところが猿男が捕らえられそうになると今まで見ないふりしていた者までも暴力的に参加してくるろころ、主人公がデパートで荷物を抱えて娘たちを探そうとしても誰も助けてくれないところ。

映画を見る側からすると、普通はこの2つは別物と考える。つまり、自分も他人へは無関心である事実は認めざるを得ないが、自分は傲慢な人間ではないと思いたいもの。しかし、この2つの被害者は両方とも、女性、子供、物乞い、などの社会的弱者であることに気づくとなんとなく落ち着かない気持ちにさせられてしまうのがオストルンド監督の狙ったところではないだろうか?

映画の中では撮影のシーンの背景になにか余分なものが入っていたり、建物を揺るがすような突然のノイズや振動といった不安を増長するような小技が埋め込まれているように感じた。こういうところは面白いのだが、151分という長尺は正直疲れた。これは、観る人との相性もあると思うが、広告代理店の連中が延々と話すところ、微妙な沈黙が続くところ、個人的にはちょっと辛かった。あと、猿男が暴れるのはええけど長すぎる。

予告編

2018年に観た映画

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