映画レビュー
今年のアカデミー授賞式で本命と言われた「ラ・ラ・ランド」を逆転でうっちゃって作品賞を獲得したのがこの映画。始まって最初に感じたのは、映像の色が綺麗なこととハンディカメラを使ったような斬新なアングル。
撮影に関しては、子供が走っているところはブレまくりやし、画面によってはスクリーン右下の奥行きでいうと手前の部分だけフォーカスが合っていて残りはぼかしたような捕り方とか、カメラがパンしながら大勢を写していくところなど低予算で安い機材を使いながらもそれを逆手にとった新鮮さを感じた。それで画面が安っぽくなっていないのは映像の色に気配りされているからなのかと思う。色に関しては、撮影後のポスト・プロダクションで明るい部分を飛ばしたり、影の部分に青を入れたりなど手作業で調整したらしい。
主人公のシャロンは本名の他にリトル、ブラックという渾名がある。映画は、小学生時代のリトル~高校生のシャロン~成人してからのブラックと3つのパートに分かれている。ポスターはこの3つの時代の顔を合成したもの。
シャロンの母親ポーラ(ナオミ・ハリス)は薬中で売春で生計を立てていて育児放棄しているようなとんでもない親。ナオミ・ハリスはこの数年でも「007シリーズ」、「サウスポー」、「われらが背きし者」、「素晴らしきかな人生」などで脇役としていい感じで来ていてこの映画では汚れ役。アカデミー助演女優賞は逃したが、これで演技の幅が広がれば今後に期待できると思う。
第1部でヤクの売人の元締めみたいな役ながら、シャロンの父親代わりにご飯を食べさせたり水泳を教えたりするファン役のマハーシャラ・アリはこの映画でアカデミー主演男優賞を獲得した。ヤク中にクスリを売って彼らが破滅するのを手助けしていながら、シャロンや身内のものには人並み外れて易しいという矛盾した人格の役で存在感めちゃくちゃあり。シャロンに対して、「ゲイだとしてもオカマとよばせるな。」や「自分の道は自分で決めろ、周りに決めさせるな。」とかいくつか名言を吐くところが格好良い。最近見た映画では「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男」に出ていたが、それよりもテレビドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」でのロビイストのレミー・ダントン役の印象が強い。
第1、2部の舞台となったのはマイアミのリバティ・シティという地区で、ここの居住者は殆ど黒人という。たしかに、映画が始まってから第3部のダイナーのシーンで白人の客が映るまで黒人しか出てこなかったように思う。1部のファンが2部では亡くなった過去の人になっているように犯罪が横行して危険な地域であることは分かる。映画の原作となった「In Moonlight Black Boys Look Blue」という戯曲を書いたタレル・アルバン・マクレイニーはこの地域出身の黒人で自身もゲイなので自叙伝的な原作で主人公はゲイというのは自然の成り行き。
確かに第2部でシャロンは唯一の友達のケヴィンとちょっとしたゲイ行為に及ぶが、この映画をゲイ映画とかLGBT映画と言ってしまうのはどうかと思う。シャロンにしてみれば、母親は切れない縁ではあるが子供の頃に見切ってしまったようなところはある。面倒をみてくれたファンにはある程度気を許しているが母親にクスリを売っているということで責めている。学校ではいじめられたりバカにされたりという中で、唯一ケヴィンだけが友達として接してくれた。そのケヴィンがたまたま同性だったということではないかなと思う。
第3部では、なよなよだったはずのシャロンがマッチョに変身しているのにびっくりする。そして、ファンと同様にストリートでのヤクの売人の元締めとして成功している。これは、シャロンがストリートから抜け出せていないということを示唆している。面白いのは、シャロンが仕事での部下に金勘定させる際に高圧的に脅すような態度を見せていること。これは第1部でファンが売人の子分の家族を気遣ってやっていたことと正反対。シャロンは、かって親切にしてくれたファンと同じようなキャップをかぶって同じ仕事をすることでファンに近づこうとしているのかもしれないが、内面的にはファンが持っていた周囲の人への優しさを持つには至っていないと見える。これは、シャロンがファンと違って他人に心を開くことができないということで、その分唯一心を許したケヴィンに対する思いがより強まっているのではないだろうか?
映画を見終わって思ったのは、ケヴィンの生き方が一番楽で良さそうということ。なので、ケヴィンとシャロンのその先は映画では描かれて内が、もしシャロンに付きまとわられても迷惑やのんちゃうかな?
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